Road to Athene 「史上最強のクロール理論」

Vol. 3 アテネで学んだ、クロールのプル動作

 この連載は、「世界で勝てる自由形」とはどんな泳ぎになるのか・・・ということを追求するつもりで開始したのだが、連載の結末を見るまでもなく、先般のアテネ五輪において、既に柴田亜衣選手(鹿屋体育大)が女子800m自由形で勝ってしまった。これは日本女子自由形陣初の快挙でもあった。
 男子自由形で注目した松田丈志選手は残念ながら8位という結果であったが、男子400m自由形では40年ぶりの決勝進出を果たした。男子短距離では、とうとう今年中に日本人が50秒の壁を破る瞬間が見られなかったものの、平泳ぎ、バタフライ、背泳ぎだけでなく、五輪での松田、柴田選手らの活躍は、日本の自由形も世界に届くという足がかりが得られたと言っても過言ではないように思える。
 本来なら第3回は「体幹を捻らない泳ぎ」を詳しく解説する予定であった。しかし、ここのところ柴田選手の泳ぎについて、各方面より説明を依頼されることがよくある。しかしその割に、専門各誌での彼女の泳法に関する分析や評価は、驚くほどに少ない。そこで今回は、鹿屋体育大田中孝夫監督、同助教授(当時)の荻田太先生らのご協力を得て、「金メダリスト柴田亜衣選手の泳ぎを省みる」ところから始めてみたい。

 さて、一見してひょろっと背が高いところ以外、コレといって特筆されないでいた柴田選手の泳技術だが、日本水泳連盟C級コーチ研修会の、荻田先生による「水泳の生理学」の講義で以下の報告があった。
 鹿屋体育大では、オランダのナショナルチームが行っている「MADシステム」による泳パワーおよび泳技術の評価を取り入れている。

図1.MADシステムによる測定のイメージ図

 MADシステムというのは、水中に手のひらよりやや大きめの板を等間隔に設置し、その板は電気的に圧を計測する仕組み(図1)になっている。泳者は等間隔に置かれた板を手のひらで押しながら泳いで行くことで、板に対して手部から発揮された力と、その際に主に上半身から発揮された推進力を計測し、その値を用いて抵抗などの値も算出するものである。オランダでは代々のナショナルチームの選手達がこの測定を行い、泳技術や、特に上肢のパワー発揮の変化の指標として定期的にデータのチェックを行っているという。
 鹿屋体育大では数年前にこの機材を購入し、現在もデータ収集中で、研修会では荻田先生が、柴田選手のデータを例に挙げて彼女の泳ぎの解説をされていた。
 ヒトが水中を泳いで移動する際には、上半身のプル動作や下半身のキック動作により推進力が発生するが、その際に水が身体に当たることで水抵抗も生じる。一般的にはその抵抗は「推進力の二乗に比例する」という報告を、よく耳にする方もいることだろう。このMADシステムによる測定でも、同様の事が明らかになっている。
 泳者が速度を高めようとする際には、推進力の発揮と抵抗の減少を目的として、そのテクニックを養っていくことになる。しかし、推進力が高くなると自動的に抵抗も増加するわけで、このことだけを考えると、速く泳ぐためには推進力の二乗に比例する抵抗に、更に打ち克つパワーが必要であるとも考えられる。これまで多くの日本のスプリンターは、この考えで選手を強化していたことも加えておく。
 MADシステムでの測定は、水中に直列に等間隔で固定された板を手で押しながら、低い速度から高い速度までの何段階かの試泳を行い、その都度ストロークで発揮されているパワーと抵抗を計測していくものである。この両者を横軸に泳速度、縦軸に水抵抗としてグラフ化すると、きれいな二次回帰曲線が得られるわけだが(抵抗が推進力の二乗に比例するわけなので)、そのグラフの線の「傾き」が少ないほど、「抵抗が少ないフォーム」=「効率の良いフォーム」であると考えることができるわけである。
 荻田氏曰く、例えばホーヘンバンド選手のデータは、発揮されるパワーが高い一方で、抵抗もそれに伴いかなり高くなると言われており、MADシステムでの測定から言えることは、どちらかというと「パワーで泳ぐ」タイプの選手であると表現できるという。
 一見して身体の浮きが良い、しかしそれでいてストロークが深く、ほぼ身体の中心軸から水底に繋ぐ線を、直線状に手のひらが移動するようなストローク技術に私は注目していたが、それを引ききるパワーが高いことが客観的数値から明らかにされており、これも今後の自由形強化のヒントとなる。
 しかしそれ以上に驚いたのは、柴田選手のストロークの特徴であった。
 彼女のストロークで発揮されるパワーはそれほど高くない。これは長距離泳者であるが故に、発揮するパワーを抑えて長い時間運動を継続するという部分では納得が行く話であるが、推進時に受けている抵抗もまた非常に少なく、更に彼女のグラフで得られた抵抗と推進力の間に引かれたグラフの係数は、短距離の世界記録保持者I・デブルーインのそれと類似していたということである。
片や短距離の女王、片や長距離の金メダリストと、専門距離が異なるチャンピオンの泳ぎの特徴が、非常に似ているということである。それとデブルーイン選手といえば、一見筋骨隆々でバリバリのパワータイプ・・・と思われるのだが、実は推進時に受けている抵抗が非常に少ないということが明らかにされたのである。
では、この二人のストロークに共通するのは何だろうか? 
一つは、「姿勢」である。この二人の選手は、従来「ローリング」として指導されていた体幹の捻りが比較的少なく、上半身を安定させて水面を「受ける」ような姿勢を取り、まるでホバークラフトのように水面を這うように泳いでいる点である。
 片腕を後ろに押す際に、通常であれば身体を捻って「ローリング」動作を入れることになり、身体を傾けてから腕の戻し動作(リカバリー)を行い、その腕が入水する頃に反対側へ身体を捻る・・・という動作を習った方が多いと思われる。
柴田選手のリカバリーは他の選手と比較すると非常に低く、体幹の捻りも通常より少ない。デブルーイン選手のリカバリーは、「ウインドミル(水車)ストローク」と呼ばれるほど、一見体幹の捻りも大きく見えるが、実は肩関節や肩甲骨の稼動が非常に大きくてそう見えるだけで、骨盤から胸郭付近を見ると、見た目ほど体幹の捻り動作は大きくないことがわかる。
 彼女らは、片方の腕をかき終えた後一瞬体幹を捻るが、リカバリー時に体幹の捻りを元に戻し、もう一方の腕がストローク中盤に差し掛かったところでリカバリーしていた腕が前方へ入水する。すなわち、左右の腕が両方とも水中にある瞬間ができるわけである。これがどのような効果を生み出しているかは明確ではないが、少なくとも水面を這うような姿勢を保つ事により、対表面に揚力をつくり、水面上での姿勢の安定性をより高めていることは間違いないであろう。
二つ目は、左右のストロークのタイミングである。
 日本では、普通にスイミングクラブなどで自由形のストロークを教わる際、ほぼ必ず「キャッチアップストローク」と言われる、前方で両手を揃えてから片一方の腕を掻き始め、その腕が前方へきたら両腕が揃った後にもう一方の腕を掻き始める・・・というタイミングで左右のストロークを同調させていく。選手になると、成熟過程に応じて左右のストロークの開始のタイミングが徐々に速くなり、片一方の腕がリカバリーに入った時に、もう一方の腕がキャッチに入る(図2)・・・というタイミングでストローク動作をつくる。オーストラリアのグラント・ハケット選手(シドニー・アテネ1500m自由形金メダリスト)のコーチであるデニス・カテレル氏も、この方法の支持者であり、その技術を用いて多くの一流選手を育成している。



 では、柴田・デブルーイン選手の泳ぎはどうであったか?
 これが実に不思議なのだが、片方の腕が水中でフィニッシュ動作(掻き終わりに後方へ腕を押すところ)に入る前に、反対側の腕がキャッチ動作に入る(図3)のである。
1つ目の最後に触れたが、片腕がキャッチからフィニッシュ動作に入る前、いわゆるストローク動作の中盤で、もう一方の腕が入水する。特にアメリカの選手たちのクロールを見ると、ここから入水した腕を前方へストレッチさせ、反対側の腕のフィニッシュを待つ。しかし、柴田選手とデブルーイン選手は、まだ一方の腕が水中でフィニッシュ動作を行っているのに、入水した腕を前方で待たせずにゆっくりとキャッチを始めるのだ。
 おそらく腕の入水時に発生している推進力と、もう一方の腕でフィニッシュ時に発生している推進力が合力となって高い推進力を得ている・・・という言い方もできるのだろうが、このことに関しては更に深く検証してみることが必要だろう。現段階で一つ推測するとしたら、MADシステムによる測定で、1m35センチ間隔に置かれたパドルを押す動作をする際に、そのようなストロークのタイミングを覚えたのではないかと考えている。
 3つ目は、ストローク。特に柴田選手のストロークは、手のひらの軌跡が非常に深く、最深到達点がストローク中盤にある(図5)。これは以前から「手のひらだけでなく、前腕も使った泳ぎ」ということで「誰でも速くなるクロール練習」(DVDテキスト、2000年ランナーズ刊)で私も紹介しているが、さらに近年より高いスピードを出すための泳ぎとして「抗力泳ぎ」を推奨している防衛大学の伊藤雅浩助教授も、先日の日本水泳科学研究会で「ストロークのキャッチ、およびフィニッシュ後には、手だけでなく腕も推進力に貢献している」と報告している。手で掻くのではなく、「前腕も使ったストローク」の有効性は徐々に日本の水泳界にも浸透しているが、以前のそれらには「キャッチ時に、より前方で深く」という但し書きがあった。

 しかし、特に柴田選手は、ごく自然にキャッチを開始すると丁度自分の胸の下辺りを手が通過するところで、手のひらの深さが最も深くなっている。これまでの「キャッチ時に深く〜ストローク中盤で軽く肘を曲げて〜フィニッシュへ・・・」と、「徐々に手のひらの位置が浅くなる」感じのストロークではない。
 この動きの効果としては、より深い位置からフィニッシュへ向けて腕をかき上げる際に、前腕から手のひらで発生する揚・抗力に関係していると考えているが、これについても「あくまでも憶測」の話であるので、これらの科学的検証が待たれるところである。

 いずれにしても、柴田・デブルイン両選手の泳タイプが酷似しているということは、柴田選手も今まで以上に推進パワーを高めれば、100mでも世界で戦える資質がある可能性も示唆される。確かに日本学生選手権の女子400mリレーで、引継ぎによるスタート(通常レースより0.5秒程度速いとされる)であるものの、100m自由形を55秒2の好記録で泳ぎきっていることが、何よりそれを物語っているといえる。この絶対スピードを高めて、持久的な練習のレベルが更に向上すると・・・4年後の北京五輪までには、不滅と思われているジャネット・エバンス選手の世界記録突破も、決して夢物語とは思えない。水泳の科学の発展と共に、注目していきたい。

参考文献
伊藤慎一郎:自由形競泳の最適アームストロークに関する理論的考察,日本水泳・水中運動研究,No6,pp12−17,2003
伊藤雅浩:オランダ王国における水泳研究事情,日本水泳・水中運動研究,No2,pp42-45,1999 
※ なお、この原稿は、2004年末に作成され、技術的な理由(図が表示できない)ことにより一旦はお蔵入りしたものであるが、スイミングマガジン2007年5月号の「マナドゥ選手と柴田選手の比較」原稿と合わせてお読みいただけると、比較的興味深いものと思われたので、このたびあえて掲載させていただいた。
ご協力いただきました荻田太先生に、深く感謝申し上げます。■
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