Road to Athene 「史上最強のクロール理論」

Vol. 1 はじめに

 2001年、福岡で行われた世界選手権。北島康介選手のメダル獲得、イアン・ソープ選手の6冠といった盛り上がりがあった。テレビも民放が水泳中継に久しぶりに参入し、連日高視聴率に沸いた。さらに試合を観戦した人数も多く、競泳の競技会としては、最大規模の観客動員を記録した。
 またこの年は、地味にではあるが、日本の男子自由形にとって記念すべき年となったことはあまり知られていない。
 男子400、800m自由形では藤田駿一選手(同志社大・JSS宝塚)が決勝に進出した。男子200m自由形でも、細川大輔選手(中央大)が日本記録を樹立し準決勝に進んだ。さらに男子50m自由形では、山野井智宏選手(当時SAT)が、男子短距離史上初の銅メダルを獲得した。
 そして、世界選手権やオリンピックでの決勝進出は、おそらく東京五輪以来となる男子800mリレー。原英晃(ミキハウス)、細川、奥村幸大(近畿大・イトマンSS)、伊藤俊介(オアフ綱島)のメンバーで、予選で日本記録を樹立し、7位で決勝に進出。決勝では伊藤に代わって藤田が出場し、予選で樹立したばかりの日本記録をさらに更新し、7位入賞を果たした。
 男子100m自由形には「50秒の壁」が未だに立ちはだかる日本自由形陣ではあるが、着実に伸びてはきている。少なくとも我々が現役の頃の、「自由形は、国際大会に出るだけ無駄」という見方は、覆しつつあると言っても良いだろう。

 今にして思えば、日本はよく我慢して我々を遠征に出してくださっていたものだと思う。今の水泳界を見ていると、国際大会でも常に誰かがメダルを獲得する。あわよくば金や「世界新」コールまで聞ける。決勝に出るのが当たり前。日本水泳連盟の「五輪参加標準記録」も、賛否両論はあるものの、結果的にはかなりレベルの高いスタンダードが設定されたことは、もう充分説明されつくした話。
 そんな現状から省みると幾分情けない話だが、私の世界ランクの最高順位は24位である。それも当時正式種目でなかった800m自由形でのランク。国際大会ではユニバーシアードで8位入賞というのが規模からして最高であるが、強豪国はほぼ2軍でナショナルチームを構成。メンバー的にも手薄だった大会での8位なので、大会自体の評価は低かった。
 その後の1991年の世界選手権では、自由形で出場したのは私ひとりであった。しかも、他の選手は決勝に出る、メダルを取ることを目標としているのに対し、私の記録は世界ランキングでも20位にも入らない。その世界選手権の400m自由形では、15位になった。まぁ健闘した部類に入るのだろうが、これにはとんだ「棚からボタモチ」が潜んでいた。
 予選レースで、私は自己ベストから約2秒遅いタイムで泳ぎ、全体の18位であった。当時は、予選と「Bファイナル」(コンソレーションファイナル=9位以下順位決定戦)というのがあり、私はそのBファイナルにもあと二人分届かない結果に終わってしまった。
 肩を落として陣営の休憩場所に戻ったあと、設楽義信コーチ(イトマンSS。当時、司東利恵選手=この大会の銀メダリストのコーチ)から「ひょっとしたら棄権が出るかもしれないから、午後も用意しとけ!」という声がかかった。念のため一旦ホテルに戻った後、決勝レースに出場する選手達と共に、決勝前のウオームアップの時間にプールに到着すると、設楽コーチが私を見つけるや否や、笑いながら走ってきた。
「いやぁ、野口、笑えるよなぁ。二人棄権が出たぞ。ラッキーだ。着替えてアップしろよ」
 正式掲示板を見に行くと、私より順位が良かった2名の選手が、確かに棄権していた。二人とも、翌日に控えていた1500mに出場する予定の選手であったので、そちらに集中したいとのことだろう。急ではあったがすぐに冷静さを取り戻し、ウオームアップに向かった。理由はともあれ、午後のレースに進めた嬉しさを味わいながら、Bファイナルでは予選より1秒以上タイムを上げた。当時日本記録だった自己ベストには約0.8秒届かなかったが、レースではひとり抜いて15位となった。
 そのレースでは、後の世界チャンピオンで、バルセロナ・アトランタの2大会連続金メダリストである、オーストラリアのキーレン・パーキンス選手(当時16歳)と一緒に泳いだのであるが、前半のスピード以外には、自分が取り立てて劣っているような気にはなれなかった。彼やその他の有力選手達にしても、身長が190センチ台で、体型の違いや、そこから来るであろう前半のスピードの違いは仕方ないとしても、何人かにはレース中盤で差を詰めることもできた。「結構戦えそうじゃん」などと、遅かったくせに一人前に根拠のない自信はついていた。
 しかし、そこで感じた「前半のスピード差」だけはいかんともし難かった。結局これが最後まで私の課題となり、バルセロナでのオリンピック選考会では前半の出遅れが響き、五輪出場権を得ることができなかった。
 
 選手生活を終えた後、自分の持ち駒(選手)で世界と戦う日がやってきた。
 2000年のシドニー五輪前に、オーストラリアのゴールドコーストへ行き、現1500m世界記録保持者のグラント・ハケット選手のトレーニングを見学した。当時そのプールへ留学していた平野雅人選手(現・日大コーチ)の激励も兼ねてである。
 そこで目にしたショッキングな光景は、おそらく自由形で世界チャンピオンを育てるまで、私の脳裏から離れないだろう。トレーニング中の100mの全力泳で、平野対ハケットのレースが見られたのだが、日本では敵なしだった平野選手でさえ、3秒後にスタートしたハケット選手に、50m過ぎから並ばれ、まもなく突き放されたのを目の当たりにしたのだ。
 平野選手のタイムが、私のストップウオッチで55秒台。練習中のタイムとしては決して遅くない。しかし、ハケット選手は51秒で泳いでいた。1500mを専門とする選手が、何千メートルものインターバルの最後に、飛び込みなしのスタートで泳ぐタイムではない。当時の日本選手権の決勝ラインが大体そのくらいだった。しかし泳いだあと「Good Swim」と言った私に、ハケットははっきりこう言った。
「サンキュー。けどイアンは多分(同じセットだったら)50秒で泳ぐよ」
 とんでもない世界であるが、それさえも裏付ける話もある。
 昨年暮れに、アリゾナのフラッグスタッフにイアン・ソープ選手が高所トレーニングに来た。現地に留学している藤井太郎コーチの話では、やはり練習中に50秒で100mを泳いでいたそうである。普段我々が生活している平地に比べ、酸素濃度が約5%薄い高所で、通常の練習中にちょっと頑張ったくらいの感じで、50秒で泳いできたらしい。
 話を戻すが、そんな光景を目の当たりにしてから、私も練習タイムに対する考え方を変えた。そして練習の組み方も、ゴールドコーストで見学した時のセットを参考にしたり、自分自身でも「200m自由形全力泳中の、速度変化の要因分析」という題目の修士論文を作成した後だったので、それまで学んできたことも含めて、従来の練習の作り方を覆すような発想を持ちかけていた。
 そこに、アメリカの高地合宿から、日本選手権でシドニー五輪代表入りを目指す原英晃選手が帰ってきた。私は早速本人と、帰国後から本番までのトレーニングについて話し、実際に自分が思っていたトレーニングを行ってみた。彼も高所で相当実力をつけていたので、難なくその練習をこなすことができた。
 その結果、五輪選考会200m自由形準決勝で、前半53秒台という、当時の日本の自由形選手としてはかなり速いペースで入り、前田泰平選手が持っていた、6年間破られなかった日本記録を破ることに成功した。もちろん、ここまで来るのに技術的なアプローチも多くあったが、特に200mという種目の特性上、「速く楽に入る方法」の構築は、日本が世界と戦う上で避けられない課題であるといえよう。そこに僅かではあるがメスを入れられたことが、私には大きな自信となっている。
 その原選手が、翌年の福岡で行われた世界選手権には、日本代表のメンバーとして男子800mリレー決勝で、第一泳者として世界と戦った。結果はあまり良くなかったが、チームは日本新で入賞した。ひとり平均1分50秒と、我々が現役の頃には夢見ていた記録での、世界大会での入賞である。「よかったねぇ」「いやぁ、鳥肌立ちましたよ」当時解説者として会場にいた緒方茂生氏と、試合後の通路で、お互いのことのように盛り上がって握手した。「僕らもこういう風になりたかったですね」緒方氏の言葉は、私の決して華やかでない現役時代の記憶を、呼び戻すものでもあった。

 アテネ五輪の選考会は終わった。私の自由形での「持ち駒」である原選手は、結局100mで3着に終わった。専門の200mでは準決勝で涙を飲んだ。シドニーの開催年から4年。ここまでくるのにも、様々な創意工夫や、厳しいトレーニングの日々があった。2002年に初めて200m自由形で1分50秒の壁を破った後も、常に現状に甘んじることなく、毎年強化のアプローチ方法を変えてきた。その分、様々な障壁もあった。普段痛めないところを故障したり、こちらも驚くような血液データを目の当たりにしたり……。シドニーからアテネまでの4年間を、より濃密に過ごした結果、代表権は得られなかったが、この大舞台で、100mで自己ベストを出すなど、できる限りのことはやり尽くした満足感さえある。
 今年30歳になる原選手に、次の五輪を目指せとは言えない。だがこの経験は、きっと次の「挑戦者」に生かされるだろう。それが、私が関わる選手になるのか、原選手自身が育てる後継者か、はたまた本人か(?)は分かりかねるが、私の指導者としての挑戦はまだまだ続く。本連載は、私や我々のスタッフが調べ、考え、何人もの選手達の、現場での痛みを経た上で生み出された、「世界で勝つための自由形づくり」を、実際の強化現場とリンクしながら、その理論の構築を進めて行くものである。
 できれば、北京オリンピックに間に合わせたい。しかし、いつかは必ず日本の自由形で世界を制してみせる……。そう誓って、この連載のはじめの言葉としたい。■
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